食卓の中の「季語」を味わう ~秋編~|AKOMEYA TOKYO

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食卓の中の「季語」を味わう ~秋編~

まだ残暑のきびしい中でも、テーブルにひとつでも旬の食材があると、気分は一気に秋めいてきます。
秋の旬の食材といえば、いも・くり・かぼちゃ、きのこなど。
このように季節を代表する食材たちは「季語」にもなっていて、昔から俳句にも詠みこまれてきました。
今回のAKOMEYA通信では、秋の食の季語を使った俳句をご紹介。
俳句とともに、季節をゆっくり感じてみましょう。

さつまいも
ほつこりとはぜてめでたしふかし甘藷
富安風生


「はぜて」=割れて、「めでたし」=素晴らしい、「甘藷(いも)」=さつまいも。「はぜて」の動詞から、その蒸かし芋の大きさや柔らかさが伝わってきます。さらに「めでたし」で、さつまいもの鮮やかな黄色が目に浮かびます。大きくてホクホクの蒸かし芋を的確に描写しています。美味しそうに詠むのも俳句の技量です。

ぼんのくぼ姉弟似たり甘藷を食ふ
山口誓子


ぼんのくぼ(盆の窪)とは、うなじの中央のくぼんだところ。姉弟が並んでさつまいもを食べていて、その後ろ姿を「似ているなあ」と思いながら見ている人はその親でしょうか。うなじの窪みが、さつまいもの窪みとも似ているようで、また姉弟を見ている親のぼんのくぼも似ていることが想像されて、その親子が蔓に並んで付いているさつまいものように見えてくるおかしみがあります。

車座にわれら藷くふわかれかな
加藤楸邨


車座は、大勢が輪になって座ること。輪になって藷(さつまいも)を食べているわれらは、この後すぐには会えない、もしかしたらもう会えないのかも知れません。「われら」と「わかれ」の表記が似ていて、「われら」と言える仲間の、永遠には続かない儚さを感じさせます。「かな」の詠嘆に、わかれを惜しむ気持ちが滲みます。


栗・栗飯
栗飯のまつたき栗にめぐりあふ
日野草城


栗飯は、炊いた後にしゃもじでほぐして盛り付けるので、栗が半分に割れていたり、もっとくずれて小さくなっていることも多いですが、「まつたき栗」=完全で欠けのない栗にめぐりあったら、栗を存分に味わえて嬉しいもの。「まつたき」「めぐりあふ」の表現に、その嬉しさがあらわれています。

栗飯ヤ病人ナガラ大食ヒ
正岡子規


病人で食欲があまりなくても、ついたくさん食べてしまうほど、栗飯が美味しかったのでしょう。栗飯「ヤ」の詠嘆に、その美味しさが感じられます。正岡子規はこの他にも、「栗飯の四椀と書きし日記かな」「栗飯や目黒の茶屋の發句會」「栗飯の月見は淋し秋の暮」など、たくさんの「栗飯」を詠んだ句を残しています。

坐ること覚えたる子が栗を食ふ
細見綾子


坐る=座る。「坐」の字でこそ、ちょこんと座っている子の姿が見えてくるようで、それが栗のころんとした形とも重なります。座るのを覚えるのは、生後半年後くらいから。その頃は離乳食なので、柔らかく煮た栗をくずしてあげているのかもしれません。


かぼちゃ
飴煮南瓜もこもこ喉を通りをる
辻桃子


飴煮南瓜は、みりんや醤油に砂糖や水飴を加えて照りがでるように煮たもの。「飴煮南瓜」という漢字表記の後でこそ、「もこもこ」という擬態語のひらがな表記がひき立ち、そのひらがなの「もこもこ」から、かぼちゃの柔らかさやホクホクとした質感がありありと伝わってきます。

煮くづれの南瓜長生き出来さうか
飯島晴子


「煮くづれの南瓜」と「長生き出来さうか」は一見関連性のない内容ですが、並べられることで響きあっています。このような俳句は「取り合わせ」といいます。固く中身の詰まった南瓜でも、時間をかけて煮ることで崩れてしまう。そこに、人間としての肉体を投影したのでしょうか。ふと「長生き出来さうか」と思う瞬間が、日常のなにげない光景の中に描かれているのが印象的です。

南瓜半分喰はれてゐる
尾崎放哉


俳句は定型では17音で作られますが、掲句は13音しかありません。このような俳句を「字足らず」といいます。その字足らずが、半分食べられた南瓜の物足りなさを感じさせます。「ゐる」の表記は、まるで半分に切ったかぼちゃの半分ずつのように字形が似ていて、字の丸みもかぼちゃの丸みのよう。音数や字の使い方が巧みです。


きのこ
茸にほへばつつましき故郷あり
飯田龍太


飯田龍太の故郷は山梨。きのこのにおいから、山梨の人々が自然の中できのこなどを採り、つつましく生活している姿が浮かんだのです。秋の食材の中でも特にきのこは、山の自然を感じさせる香り高い食材なので、なおさら故郷の記憶と直結したのでしょう。においは記憶を一瞬で呼び覚ましてくれます。

齢深みたりいろいろの茸かな
森澄雄


こちらも「取り合わせ」の句です。年齢を重ねて深まっていくものは、身体的な皺や傷の数だけでなく、人間関係や思索などさまざま。それらを、「いろいろの茸かな」と取り合わせることで、可視化する効果が出ています。大小も色も香りもいろいろの茸たちが、ひとりの人の中で深まるさまざまなものに、あるいはたくさんの人々の齢を深めている姿にも見えてきます。

爛々と昼の星見え菌生え
高浜虚子


この句については様々な解釈が出ていますが、「客観写生」「花鳥諷詠」を掲げる虚子の句として素直に鑑賞すれば、昼の星が爛々と見えるということは、太陽や月、あるいはかなり明るい一番星でしょうか。そして自然の中で菌(きのこ)の自生する姿が、薄暗い森林の中などで白く濡れて光っているように見えてきます。空の星と地のきのこが呼応しあう、大きな景の句です。信州の小諸で作られた句で、きのこの名産地である信州への「挨拶句」になっています。俳句は、もともと2人以上で完成させていく「俳諧連歌」の発句(一句目)を独立させたもので、発句は「挨拶句」とも呼ばれていたので、俳句においても場所や季節を詠み込む「挨拶性」が大事にされているのです。



俳句から、食材の香りや味わい、新鮮さ、一緒に味わう人たちの話し声、質感などがありありと感じられてきますね。
秋の食材を味わいながら、夜長に一句したためてみては。