波佐見焼伝統の「くらわんか碗」をつくる翔芳窯の手しごと|AKOMEYA TOKYO

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波佐見焼伝統の「くらわんか碗」をつくる翔芳窯の手しごと


長崎県波佐見(はさみ)町の名産である波佐見焼は、近年全国的に大変人気のあるやきものです。
アコメヤでも、2016年頃から波佐見焼の器を販売しており、中でも人気なのは「くらわんか碗」という飯碗。このアコメヤのくらわんか碗を作っているのは、波佐見焼の翔芳窯(しょうほうがま)です。
今回のAKOMEYA通信では、波佐見焼と切り離すことのできない有田焼との歴史、江戸時代に大流行した「くらわんか碗」の特長、アコメヤのくらわんか碗に翔芳窯の職人が施す「イッチン描き」のことなど、詳しくお伝えします。


波佐見焼の歴史
波佐見焼の窯が立ち並ぶ町並み
波佐見焼は約400年前、安土桃山時代終わりの1590年頃に、大村藩(現在の長崎県波佐見町)ではじまりました。
豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加していた大村藩の藩主が、慶長3年(1598年)に朝鮮人陶工の李祐慶(りゆうけい)を招き、慶長4年(1599年)には波佐見町村木郷畑ノ原に朝鮮式連房登窯を築き、やきものづくりを始めました。
慶長10年(1605年)には三股山咽口(砥石川)に、磁器の原料となる良質の陶石を発見。のちに畑ノ原窯跡で陶器と少数の磁器が発掘されたことから、1610年頃には磁器の生産が成功していたことがわかっています。

同時期に、同じ長崎県と佐賀県の間に位置する鍋島藩(現在の佐賀県有田町)でも、朝鮮人陶工の李参平(りさんぺい)により有田焼が生まれ、こちらの有田町が「日本磁器発祥の地」とされています。

江戸時代の1630年頃には、陶磁器の大産地である中国が明朝から清朝への政権交代で内乱が続発し、輸出ができなくなったかわりに、この佐賀県・長崎県の肥前のやきものたちが、長崎県の伊万里港から東インド会社によってヨーロッパなど世界へ輸出されることになり、これを機に波佐見は磁器の大産地へと発展しました。

有田焼は、華やかな色絵や繊細な染付の技法による美しいデザインが特徴で、ヨーロッパの王侯貴族や富裕層に愛されて世界中に名が広まり、国内でも徳川家への献上品とされ、装飾的な食器や茶道具などの高級食器としての地位を築きました。
波佐見焼は、白磁に藍色の呉須の染付が施されたシンプルなデザインが特徴で、日常使いの器として広く愛され、江戸時代の遺跡からほぼ確実に波佐見焼が出土しているほど、磁器を庶民の日常食器に押し広げました。
有田焼も波佐見焼も、透き通るような光沢のある白磁が特長で、どちらも「天草陶石」という同じ原料を使用しています。
天草陶石
当時、波佐見焼も有田焼も伊万里港から出荷されていたため、「IMARI」として世界に流通していました。やがて伊万里地方のものは「伊万里焼」、有田地方のものは「有田焼」と区別されましたが、波佐見焼は「有田焼」として流通するようになり、また有田焼の補助的な生産地として機能し、それは江戸時代から現代まで続きました。

1980年代後半のバブル期には、波佐見焼は有田焼とともに最盛期を迎えますが、2000年頃の「食品産地偽装問題」をきっかけに、食品に限らず生産地表記の厳密化が進み、波佐見焼を有田焼と表記することができなくなり、有田焼と波佐見焼は明確に区別されるようになりました。

有田焼としての売上を失った波佐見町は、やきものだけに頼らない町の再生を目指し、2001年に「来なっせ100万人」というスローガンを掲げ、農業ツーリズムと産業ツーリズムを組み合わせた「グリーンクラフトツーリズム」を推進しました。
アコメヤで販売している翔芳窯の飯碗を始め、肥前地域のやきものの総合商社として波佐見焼を取り扱う「西海陶器」の児玉さんが先導して、閉鎖した製陶所の跡地を再開発し、地域食材を使ったカフェやギャラリー、雑貨屋などの立ち並ぶ観光スポット「西之原」をオープン。またNPO法人グリーンクラフトツーリズム研究会を立ち上げ、イベントの開催や民泊やレンタサイクルの導入などの様々な施策を展開しました。2017年には目標としていた観光客数100万人を超える111万人を達成!人口約1万5千人の町に、現在でも100万人を超える観光客が毎年訪れています。
また、波佐見焼は現代のトレンドやニーズをデザインに反映することで特に若い世代の人気を獲得し、今では日本の日常食器の生産量の16%を占めるまでになっています。
2016年には、佐賀・長崎両県にまたがる「肥前窯業圏」が、日本文化遺産に登録されました。


江戸時代に生まれた「くらわんか碗」
翔芳窯がつくるアコメヤの「くわらんか碗」
江戸時代、波佐見焼を一躍庶民の日常食器に押し広げたのは、「くらわんか碗」と呼ばれる飯碗でした。
江戸時代の大阪と京都を結ぶ重要な交通手段であった淀川の舟運の舟に、「餅くらわんか、酒くらわんか」とかけ声を掛けながらお酒や食べ物を器に盛って売る煮売船があり、かけ声から「くらわんか舟」と呼ばれ、そこで使われた器が「くらわんか碗」と呼ばれました。波佐見は「くらわんか碗」の一大産地でした。それが江戸時代の大ヒット商品として全国に流通しました。

「くらわんか碗」の特長は、舟の上で揺れても倒れにくく、渡す時に指のかかりやすい高台と、食べ物も酒もなんでも入れられる絶妙な大きさ、そして手頃な値段でした。磁器碗は高級なもの、庶民には手が届かない、という当時の常識を大きく変え、たくさんの庶民の人気を得ました。
その後、陸上交通の発達によって舟運が衰退していき、しだいにくらわんか碗は作られなくなりましたが、現代になり江戸時代のくらわんか碗を参考にして、複数の窯で復刻されました。


翔芳窯の職人による「イッチン描き」

アコメヤで販売しているくらわんか碗には、「イッチン描き」という技法で模様が施されています。
イッチンとは、チューブ型の筒のこと。そこに粘土を水で溶いた泥漿(でいしょう)や釉薬を入れて絞り出し、作品に盛り付ける装飾技法です。
この「イッチン描き」の技法を波佐見焼にとり入れたのは、翔芳窯の二代目・福田雅樹さんです。
(写真左から)翔芳窯初代・福田茂喜さん、二代目・福田雅樹さん
二代目の雅樹さんは、初代の茂喜さんから「窯を継がなくてもいいよ」と言われていましたが、「やっぱり長男としてはやらんといかんだろう」という思いがありました。
また、波佐見焼の各窯は現代のトレンドやニーズをデザインに反映することが得意な一方、25年ほど前の当時は窯ごとの特長があまり出せていないと感じており、自分の会社にしかできない技法を編み出したいという思いから、20歳の時に波佐見を出て、京都にある清水焼の窯に修行に出ました。

その修行先の窯で出会ったのが、「イッチン描き」の技法でした。
京都の窯でイッチン描きを担当していた絵付けの職人が、雅樹さんにとても丁寧にイッチン描きの技法を教えてくださったそう。
雅樹さんにイッチン描きを伝えてくれたその絵付け職人が、現在の雅樹さんの奥様です!
「当時の彼女が本当に丁寧に教えてくれたんです。僕は絵付けに携わっていたわけではなかったので、仕事が終わったあとに。今のうちがあるのは、奥さんのおかげです。」

結婚して20年ほど前に実家の翔芳窯に戻った雅樹さんは、早速波佐見焼にイッチン描きの技法を取り入れました。
京都の窯では、粘土を水で溶いた泥漿(でいしょう)でイッチン描きをしていましたが、土の色だけでなく多種多様で鮮やかな色を出すために、翔芳窯では泥漿を使わず釉薬を使ったイッチン描きを編み出しました。それが今から10年ほど前です。
現在、翔芳窯には絵付けの職人が10人いますが、そのうちイッチン描きができるのは3人だけです。しっかり訓練しないと習得できない、難しい技法です。
「マヨネーズの入れ物に、蓋の裏から注射針を挿したものを使っています。細い針で釉薬を出す強弱が結構難しいんです。太くならないよう、細い線を書き続ける技術が必要です。」
中でも最も難しいのが、茶碗の内側に描く時だそう。
「茶碗の内側に描く時は、手を机の上や器の上に固定できず、手を浮かせながら描きます。しかも曲線をフリーハンドで描くので、一番難しいです。この鶴の絵の飯碗には、イッチン描きに加えて筆の絵付けの技法も使われており、5人の職人が分業して絵付けしています。」
イッチン描きと筆の絵付けの技術を持つ翔芳窯の職人の力を結集し、ひとつひとつ手描きで丁寧につくりあげているくらわんか碗。
江戸時代当時は手頃な値段で大ヒットしたくらわんか碗ですが、こうして職人の技術を活かした美しい模様を施すことで、より価値のある波佐見焼となって現代の食卓を彩ります。

翔芳窯の福田さんが描く波佐見焼の未来

現在の波佐見焼が抱えている課題は、やきものの原料となる生地の不足による、価格の高騰です。
また、窯でやきものを焼くための燃料であるガスの価格も上がっています。
これらの課題に対応するためには、販売する商品の価値を上げていくことが重要、と雅樹さんは考えています。
「波佐見焼は、有田焼に比べて庶民的で安い、というイメージが昔からついていて、実際現在でも安くてかわいくておしゃれ、というイメージで若者からも人気があります。その”安くて”が先行するイメージを、少し変えたいと思っています。職人の技術で丁寧に絵付けを施すことで価値を上げて、高単価な波佐見焼も発信していきたいです。」

また、波佐見焼の未来のためには、技術を継いでいく次世代の育成も大切です。
「翔芳窯には、うちの商品をずっと集めていて、それを自分でも描けるようになりたい!と、医療関係の仕事をやめてまで、弟子入りしてくれた子がいるんです。今26歳で、毎日一生懸命絵付けの練習をしています。」
また、雅樹さんの息子さんも、翔芳窯を継ぐと言ってくれているそう。
「祖父が亡くなるときに、息子が「俺がおるけん、大丈夫。」と言って祖父を送り出していたんです。「お前、絶対やらんといかんぞ、こんなこと言ったら」と言ったら、「まあ、そのために岐阜におるとよ」と言ってくれています。後を継ぎたい、と言ってもらえる会社であり続けたいのと、波佐見焼に携わったからちょっといい生活ができる、という状態でありたいな、というのが夢ですね。」
息子さんは現在20歳。雅樹さんが京都に修行に出たのと同じ歳です。波佐見焼のさらなる未来が楽しみですね。

翔芳窯の歴史と職人の技術が活きるくらわんか碗を食卓にお迎えして、美味しいご飯とともに波佐見焼の未来に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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