「放香堂」監修のアコメヤのお茶ができるまで|AKOMEYA TOKYO

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「放香堂」監修のアコメヤのお茶ができるまで

 2022年夏に発売された、アコメヤオリジナルの宇治茶。創業天保年間で約190年の歴史ある「放香堂」の自社茶園と契約茶園で栽培された、京都府内産茶葉100%の宇治新茶を使用しています。
今回はその放香堂さんにフォーカス!日本茶のはじまりと宇治茶の歴史、緑茶の製造工程など、歴史ある放香堂さんならではのエピソード満載でお届けします。


<宇治茶について>
 宇治茶は、静岡茶や狭山茶とともに「日本三大茶」と呼ばれ、鎌倉時代から生産されている歴史あるお茶です。
 鎌倉時代初期の1191年10月31日、建仁寺の開祖である栄西が、宋から「漢ノ小柿」という茶壺に茶の実を入れて日本へ製法を持ち帰りました。その10月31日は現在「日本茶の日」となっています。栄西は日本の茶の聖典ともいわれる「喫茶養生記」を記しており、源実朝の二日酔いを茶で治したという話もあります。
 その栄西から送られた宋の茶種を、明恵上人が京都栂尾高山寺周辺と宇治に播いたことが宇治茶の始まり。現在、高山寺には「日本最古の茶園」という標識が建てられています。

 南北朝時代には、栂尾のお茶を"本茶"と呼び、宇治のお茶は"非茶"と呼ばれていました。それが次第に宇治の地で良質のお茶が生産されるようになり、宇治のお茶こそが"本茶"と呼ばれるまでになりました。
 戦国時代には豊臣秀吉が宇治茶を好み、天正12年(1584年)1月、宇治郷以外の者が宇治茶と称して茶を販売することを禁じました。
 江戸時代には、上質の茶の壷一つは金1枚以上の価値を持っていたとされています。
 宇治周辺の山間地は、平地と比べると日照時間が短く気温が冷涼で、昼夜の温度差が大きいのが特徴です。朝霧が立ち込め、自然に茶園が覆われることでゆっくりと成長するため、うま味成分が長く保たれ、豊かな香りと強いうま味を蓄えたお茶の新芽が5月ごろから芽吹き始めます。九州や静岡の新茶は4月上旬から5月上旬ごろのところ、京都宇治の新茶は5月中旬から6月中旬ごろに出荷されます。

 茶樹はほとんどが「やぶきた」という品種。「やぶきた」は、日本全国の茶園面積の約75%を占めています。やぶきたが急速に普及したのは1960年代。凍霜害に強いので栽培がしやすく、良い品質のお茶を安定して収穫できることが人気の理由です。


<放香堂の歴史>
 放香堂の創業は約190年前の天保年間。山城の国・東和束村において、祖先である東源兵衛が自家茶園を経営、全国一円に卸売りを行っていました。そのお茶を江戸へ送ると香りの良さが評判を呼び、安政5年(1858年)に松平家の御茶御用に任命されました。「放香堂」の屋号は、その当時の松平家より「いつまでもその香りを放ちつづけるように」と拝領したものです。

 放香堂の茶園は、実は古墳の上にあります。地元ではたいこ山などと呼ばれていましたが、明治11年(1878年)に安積(あさか)親王陵墓ということが発見されました。安積親王は聖武天皇の第二皇子で、天平16年(744年)にわずか17歳で死去されています。その約800年後、古墳とは知らずに茶園が開かれたのです。

 京都・山城地域の傾斜地茶園は、平成27年4月24日に「『日本茶800年の歴史散歩』~京都・山城~」として日本遺産第1号に認定されました。山城地域は、12市町村(宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、宇治田原町、木津川市、和束町、南山城村、平成28年4月に久御山町、井手町、笠置町、精華町が追加認定)を指しています。
<放香堂による茶貿易と日本初の店頭でのコーヒーの提供>


 江戸時代の日本は鎖国政策をとっており、唯一長崎の出島のみを開港していました。慶長14年(1609年)に、オランダの東インド会社が長崎の平戸に商館を開設して日本との貿易を始め、慶長15年(1610年)、日本のお茶が初めてヨーロッパに輸出されました。その後、嘉永6年(1853年)にペリー来航を受けて安政5年(1858年)に開国宣言をし、安政6年(1859年)生糸と共にお茶も重要な輸出品として181tが輸出され、日本の茶業の大きな転換期となりました。

 慶応3年(1867年)に神戸港が開港した折に、放香堂の二代目東源兵衛が神戸に輸出商館を設けて、諸外国との貿易(日本茶の輸出取り扱い)を開始しました。

 明治時代には、インドへお茶を輸出した際、日本へ帰ってくるときにその茶壺が空なのはもったいないと、珈琲を入れて輸入。そして明治11年12月24日の讀賣新聞にて「焦製飲料コフィ―弊店にてご飲用 或いは粉にて御求共にご自由 神戸元町三丁目の茶商放香堂」という新聞広告を掲載しました。この文献が現存していることから、放香堂は「日本で最初に店頭でコーヒーを提供した店」といわれています。三省堂『コンサイス・カタカナ語辞典』(旧外来語辞典)にも、「カフェ」と「コーヒー」の2単語において、『明治11年(1878)神戸に初のカフェ・コーヒー店「放香堂」ができた』と、1976年より継続して掲載されています。当時は石臼で挽いたコーヒーを「焦製飲料コフィー」という名前で販売していたそうで、放香堂では明治時代当時を現代風にリメイクした、石臼で挽いた復刻珈琲も提供しています。


<茶の製造工程>


放香堂のお茶は、京都府和束町にある自社茶園と契約茶園で栽培されています。今回はその契約茶園の工場で、製造工程を見せていただきました。
1. 不要物をおとす

摘んできた茶葉についている、虫や茎など、不要なものをふるいおとします。
摘んだ後も生葉は呼吸を続けているので、葉が熱を持たないよう、湿度を保ちながら温度は低く保管し、摘採後15時間から20時間ぐらい迄で速やかに製造することが重要です。
2. 蒸す

 日本茶の繊細な美味しさを引き出すのは、日本独自の"蒸す"という製法。茶の生葉の酸化を止め、葉を柔らかくします。
生葉を摘採後、30~40秒ほど蒸したものを「煎茶」、その2倍の60秒以上蒸したものを「深蒸し茶」と呼びます。
 深蒸し茶は長時間蒸すことにより茶葉が細かくなり、抽出すると濃い緑色となります。さっと淹れることができ、まろやかなコクがあるのが特長で、水出しでいれるお茶としても向いています。
3. 冷却後揉む

蒸した茶葉の表面の水分をとりながら冷やしたあと、弾力のある力で揉みながら熱風で乾かす「粗揉(葉振るい)」をします。
4. 回転揉み

「揉捻機」という機械で、熱を加えずに水分の均一をはかりながら力を加えて揉みます。
5. 揉んで乾かし細くする

「中捻機」で揉みながら熱風で乾かし(揉み切り)、「精揉機」で熱と力を加えながら葉を細くして乾かします(転繰揉み)。最後に、「乾燥機」で熱風をあてて十分に乾燥させ、「荒茶」にします。
茶の生葉には80%程の水分が含まれていますが、「荒茶」と言われる段階では、水分含有量が5%程になります。
6. 荒茶を箱詰めする

高温、湿気、光、酸素、強い香りに弱い茶葉を、専用の箱に入れて、仕上げ茶製造工場に運びます。ひと箱に50kg分の茶葉を入れます。


ここからは、仕上げ茶製造工場である「放香堂」での作業。放香堂六代目の茶師・酢田恭行さんが、数種類の茶葉を選定し、茶葉の細かさや火入れの具合、ブレンドの比率などを監修していきます。
酢田さんは、全国茶審査技術の最高位である十段を保有。十段取得者は競技会60年以上の歴史の中でも10名ほどしか存在せず、非常に狭き門。この酢田さんの厳しい監修によって、茶の味が決まってくるのです。
7. 仕上げ・色彩選別・火入れ

仕上げ工程では仕上機で茶葉を切断したり、篩(ふるい)にかけたりしながら茶葉の形状を整えます。次に色彩選別機で、茶葉に含まれている茎や葉脈を取り除き、火入れ時のムラを少なくします。そして火入れ機で茶葉を焙煎し、香味を引き立てると同時に、水分含有量を3%程度にすることにより長期保存可能な状態にします。
総合仕上機
色彩選別機
火入れ機
8. 合組・パッケージ

茶葉をブレンドし仕様の品質にし、最後にパッケージングして、出荷されます。
合組機
袋詰め機
こうして長い歴史とていねいな工程でつくられたアコメヤのお茶。香りや味わいの違いを、ぜひお楽しみくださいね。